風流を剥ぎ取る映画「骨と禅」
上田映劇での公開最終日に、「骨と禅」を観てしまった。
嗚呼、困ったもんだ。
「観たいんです」と事前に周りに話すと、「感想待ってるね」と口々に言われる。そういう映画なのだ。
背後霊のようにプレッシャーを抱えながら観てみると、案の定、取り扱いに閉口してしまった。
いや、面白い。とっても面白い。
だけどいかんせん、切り口が無数にあるのだ。
まず、日経アメリカ人の禅僧、というヘンリ・ミトワの来歴自体が異色そのものだ。出自に、戦争に、時代に。他者から翻弄されつつ、自身が放浪しつつ、流れ着いた京都天龍寺。
彼の生い立ちそれだけで、ある意味"立派な"ドキュメンタリーは成立しうる。
なのに、監督はその分かりやすさを許さない。
感傷に浸る間もなくパッパッパと場面は進み、変わり、あれよあれよと思わぬ方向に転がりだす。
ウェンツ瑛士によるミトワ半生の再現ドラマも合間合間に挟まれて、何が本当で何が嘘なのか、わからなくなってくる。
でも、不思議かな、別段それを不快に感じないのだ。
虚実入り混じる構成なのは、仕方ない。だって、ミトワ自身が分かちがたい虚実で構成された人間であることが、つまびらかになっていくからだ。
終盤、ミトワの娘のひとり、しーちゃん(彼女もなかなか強烈なキャラクター)がミトワに語る言葉が象徴的だ。
「(ミトワは)はぐらかして生きようとしてんの」。
ある意味、残酷な映画だ。
ミトワが生涯続けてきたはぐらかしを、いや、彼を含む周りの人間がミトワに託していた「風流人」という生き様を、本作は剥ぎ取っていくからだ。
僕自身、無意識のうちにそんなキャラクター性を彼に投影していた。「日本人よりも風量を解する外国人」。それは、意外と気持のよい違和感だ。
でも、彼は仙人でもなければ、近寄りがたい超人でもなかった。
普通の父親であり、普通の男であり、何より、普通の"母を求める息子"だった。
「未来よりも過去の方がおもしろい」と冒頭で語る彼の言葉は、物語が進むにつれ多層的になっていく。ミトワにとって過去とは、なんだったのだろう?
再現ドラマの中で、彼は1年がかりで天体望遠鏡を自作する。その虚実は置いておいても、何光年も離れた星が発した"過去の光"にキラキラと目を輝かせるミトワは、とても彼らしいエピソードに見えた。
何がミトワの残した"本当"なのだろう。
きっとその答えはいろいろあるけれど、ひとつ明白なのは、焼いて残った彼の遺骨だ。
全部をひっぺがした後に残った、白い骨。間違いなく、そこにあるもの。
しかし、ラスト、彼の骨は驚くべき飛び技でその意味をうやむやにしてしまう。
いやはや、最後の最後にして、ミトワは自分の存在を"はぐらかす"ことに成功してしまったのだ。
やっぱり僕は、風流人である彼に拍手を送らざるを得ない。
死人に口なし。
だけど、生者の言葉だって、不確かなもんだ。
ひねくれ者こそ、腹の底から面白がれる映画だった。
僕?
もちろん、ゲラゲラ笑いながら映画館を後にしましたよ。
その笑いの意味は、今もずっと考えている。