六月二八日のこと
昨晩は、ラッキーに会っていた。
ラッキーは、僕が子供のころにやってきた雑種犬だ。
「子犬が生まれ、飼い主となってくる人を探している」
そんなチラシを、母親地元のスーパーで見つけたのがきっかけだ。
夜、車に乗って母犬のいる家まで向かったのを覚えている。
庭先の犬小屋には、ころころとしたぬいぐるみそっくりの子犬。
「よし、この子にしよう」と、ささっと決まった。
帰りしな、縁側からのぞいたおうちのテレビでは、サザエさんが流れていた。
お母さんはシベリアンハスキー、お父さんは流れ者の野良犬という生まれのラッキーは、すくすくと巨大化していった。
お座りはマスターしたけれど、お手は50%の確率で両手だった。
そんなラッキーには、昨日、ペロペロと右頬を舐められた。
「おお、ひさしぶりだね」としばしモフモフしていた。
だけど、すぐに「あ、やばい」と思った。
もうすぐ引っ越すのだけど、そこには庭がない。となると、外飼いのラッキーは困ったことになる。
「ごめんごめん、なんでこんなことをすっかり忘れていたんだろう。抜けてたなぁ」
反省しつつ、不動産屋さんにキャンセルの連絡するのが嫌だなぁ、と気落ちしていた。
と、そこで目が覚めた。
目が覚めたあとも、しばらく考えていた。
庭付きの物件を探さなきゃ、不動産屋に電話しなきゃ。
そのうちに、やっとこさ気がついた。
「あれ? ラッキーはもう、いないじゃん!」
大学生の時に、ラッキーはふらりと旅立っていった。
最期まで自分が看取っていたはずなのに、こんなにスポンッと忘れていたことに、結構びっくり。
だいぶ前のことだし、「うう、ラッキーはもうこの世界にいないんだ」なんてメソメソした気持ちは、まったく湧き上がってこなかった。
そのあとは、いつも通り冷蔵庫を開けて、飲むヨーグルトをダイレクトに口元へ。
でも、夢の中で、いや、起きたあとも、僕はラッキーがいることを確信し、引越し先に頭を悩ませていたのだ。
僕次第で、こんなにも簡単にラッキーが生き返ってしまう。
それは、なんとも不思議で愉快な体験だった。
乳酸菌をグビリグビリと胃に直送させながら、先ほどまでの愛犬の手触りを思い起こす。
久しぶりに会えて嬉しかったぜ、ラッキー。
六月十八日のこと
鬼束ちひろは、ちいさかった。
彼女の詩は、自分の肉を切って、そこから流れ落ちる血で書き殴ったような言葉ばかりで、いつもしんどい。
そのしんどさが、痛くて、いつも救われていた。
なので、神格化、というと少し大げさかもしれないけれど、自分より大きくて、高い位置に立っているようなイメージを握りしめていた。
でも、はじめて参加した彼女のライブでは、僕が2階席から彼女を見下ろしていて、その姿はとてもちいさかった。
ちいさい、と言うと、語弊があるかも知れない。
僕と同じ、生身を持ったひとりの人間だと気づかされた、という表現の方が正しそうだ。
だからこそ、彼女のあまりに力強い声が響いた時、「ああ、やっぱり鬼束ちひろは特別だ」と改めて思い知らされた。
強くて、脆くて、鬼気迫っていて、なのに実はチャーミング。
大好きだけど、「やっぱり、好きだなぁ」と全身で再認識する夜だった。
吐きたくなるほど辛くて、悲しくて、寂しくなった時は、耳にこだまする彼女の叫びを思い出して、きっともう少しだけ生きていくことを決めるんだと思う。
六月七日のこと
昨日、自分が何をしていたか。
もう、全然、思い出せない。
あ、コンビニ、たしかセブンイレブンに行った気がする。
あ、駅前でばんごはんを食べたはず。
そんな、おぼろげな記憶は、まるで夢のようで。
なんて、ちょっとロマンティクに言いくるめたけれど、本当はほわほわした記憶力しかないという話だ。
読んだ本の内容も、すぐ忘れてしまう。
推理小説は、2回目だってドキドキしながら読める。
「こ、こいつが犯人だったとは!」
「そういえば、そうだった気もする」
再生可能、エコな脳みそだ。
大丈夫、僕がいくら忘れようとも、本はきちんと文字の連なりを腹の中に抱えてくれる。
ただ、残念なことに、昨日は読み返すことができない。
すれ違うだけで、もう再会することもできず、昨日の残り香にただくんくんと鼻を震わせながら今日を過ごしている。
なにを怖がっているんだい?-『檀流クッキング』
ああ、めんどくさいぞ、料理。
素材を集めて、分量を計って、火加減を調整して。
いわゆる料理上手な人ほど、迷いなくパッパッパッと手が動いていく。
プロセスを覚えているのではなく、「これとこれをこうしたら、こういう出来上がりになる」という料理の勘所を押さえているのだなぁ、としみじみ敬服する。
僕だけ、かも知れないけれど、初心者ほど"テキトー"が難しい。
手よりも先に頭がぐるぐる回り始めた時は、『檀流クッキング』を手に取るようにしている。
ほらほら、いいから飛びなさい、と気持ちよく崖から放り出してくれる感覚があるのだ。
流れるように、テンポよく、「こうして、こうして、こうすればほら、できあがり。うん、うまい」。
そんな調子で様々な料理が出来上がっていくもんだから、「あれ、料理ってこんなに簡単なの?」と思い込んでしまう。そしてそれは、錯覚じゃない。
包丁で具材を切っていくように、檀の言葉はサクサクとこちらの不安や気構えを削り取っていく。
『みそとアジとゴマの割合はどうするかって? どうだっていい。アジとみそを半々にし、ゴマを一割ぐらいのつもりでやってみてごらんなさい。』
信頼を置くべきは、レシピに乗っ取った過程ではなく、自分の舌だ。
自分がうまけりゃ、いい。
そんなシンプルな答えを、ともすると見失いがちになる。
自分のために、もっとわがままに料理と向き合おう。
まずは見て見ぬ振りをしていた、台所に積もったお皿たちと向き合うところからですね。
闘う読書-『ティール組織』
いつもは読んだ本の話ばかりだけど、今夜は、これから読む本の話。
今日、手元に『ティール組織』が届いた。
手に持ってみると、その分厚さ、重さを改めて実感する。
版元である英治出版の本は、ビジネス書、と括ることはできるだろう。
本書も、そうだ。
しかし、やはり英治出版の本は特異で、とにかく噛み応えがある。
歴史・文化・経済を下敷きにしながら語られる"ビジネス"の話は、文字を追う方も常に頭をフル回転させないといけない。
疲れる、が、そういった読書はやっぱり面白い。
格闘する読書、と表現するのがしっくりくる。
本書では、これまでの組織の在り方が様々なカラーで表現されている。
題となっているティールもまた、色の名前だそうだ。(マガモの羽の色、らしい)
脳を休めながら読もうとブドウ糖たっぷりのラムネを買ったら、ティール色だった。
ということで、ボリボリとラムネをつまみながらページをめくっていくことにする。
これから、どうぞよろしくね。
15年を追い詰める、30分。-『生存』
14年前に失踪していた娘が、地中に埋められた遺体となって帰ってきた。
妻を亡くし、ガンに体を蝕まれながらも、父はほんのわずかな手がかりにすがりつきながら犯人に迫っていく。
ストーリーを福本伸行、作画をかわぐちかいじが手がける本作。
両者を知っている人であれば、その面白さを読む前から確信できるはずだ。
殺人の時効は、15年。
残った半年に全力をかけるが、なにぶん手がかりは皆無に等しい。
娘の友人に当時の話を聞いたところで、遠い過去の出来事。
ぼんやりとした情報を得られるだけだ。
現実であればすぐに打つ手なし、となるところだけど、そこは漫画。
ある種ご都合主義ではあるけれど、ギリギリのところで次のヒントを掴み取り、じわりじわりと真相に近づいていく。
福本伸行の漫画に出てくるキャラクターたちは、独自の理屈を積み重ね、相手を追い詰めていく。
客観的に見れば「そんなに都合よくいもんか」と言いたくなるけれど、独特のセリフ回しと希薄で、不思議な説得力を帯びてくる。
特に本作では、骨太なかわぐちかいじのタッチもあいまって、なかばこじつけとも言える主人公の想像に「ううむ、なるほど」と唸らされてしまう。
まぁ、しょうがない。この父親には、諦めるという選択肢がないのだから。
そして、やっぱり極め付けは特異な設定から生まれるゲームの妙だろう。
時効の日付に近づく時計の針を横目に見ながら、犯人と相対するラストの攻防は秀逸の一言。
「ここまできて、捕まるものか」という犯人と、「ここまで追い詰めて、逃すものか」という主人公の真正面からのぶつかり合いは、もう、すこぶる面白い。
2巻で完結、という尺の長さも実に気持ちがいい。
ザ・エンターテイメントを味わってみてください。