そば、そば、そば。-『そばと私』
長野県は、そばがうまい。
当たり前すぎて通説のように感じ取っていたけれど、実際に長野に来てそばを食べてみると、本当にうまいのだからしょうがない。
味はもちろん、そこかしこにそば屋があるものだから、自然とズルズル音を立ててそばをすするのが日常になった。
そうなると、そば自体への関心もじわじわと大きくなり、『そばと私』もふむふむと以前より愉しく読めるようになった。
1960年に創刊した、「季刊新そば」。
なんともマニアックな雑誌ではあるけれど、この歴史が日本人の持つそば愛を端的に表している。
この雑誌に寄せられた、そば好きたちのエッセイをまとめたのが本書だ。
由緒あるそば雑誌となると、書き手も豪華、かつバラエティに富んでいる。
赤塚不二夫、色川武大、養老孟司、米原万里……
そばの魅力にとらわれた総勢67人が、各界から馳せ参じているというわけだ。
個人的には、建築家・隈研吾の「線的なものと身体」が特におもしろかった。
「食べ物と建築とはパラレルだ」という意外な言葉から始まる本稿。
塊でも面でもなく、線の建築家である隈研吾とそばの間に、不思議な共通項が浮かび上がってくる。
なかなか侮れないぞ、そば。
どのエッセイも数ページ、そばのようにささっと飲み込めるのもまた乙ですな。
お好きな書き手から、どうぞズルズルっと一杯やってください。
たまにはこんな形で-『花井沢町公民館便り』
ほそぼそと、でも地味に頑張りながら続けてきた、柏屋漫画部。
詳細は上記リンク先に譲るけれど、簡単に言ってしまえば、ゆるゆると持ち込んだ漫画についてあれこれ語り合うお気軽イベント。
毎回、イベントの前にはささやかなラジオ収録もし、公開している。
今回は「5巻以内で完結する漫画」というテーマだったので、ラジオでは『花井沢町公民館便り』を紹介した。
さて、どんな話かと言うと……と続けてもいいのだけれど、せっかく音源を収録しているので、今回はテキストではなく(恥ずかしながら)僕たちの声でほんのり愉しんでいただけると幸い。
手を抜いたわけじゃない、ぞ。たぶん。
なんだか、久しぶりだね-『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』
以前、小説の面白さを知ったのは川上弘美だと書いた。
その川上弘美を知ったのは、高校生の時の国語の教科書だった。
授業中、教壇に立つ先生の言葉を聞き流しながら、退屈しのぎにめくっていた教科書。
そこに、川上弘美の短編『神様』が載っていた。
となりの部屋に越してきた、大きな熊。
彼に誘われて川原まで散歩する、というだけの短いお話なのだけれど、「小説はこんなに自由でいいんだ」と爽やかな衝撃を感じたのを覚えている。
他にも、いくつかの小説や詩が、何年経っても僕の頭にこびりついている。
ほんのりと男女の恋愛模様を思い起こさせる「ジーンズ」。
幼い頃の氷菓子の思い出と悲しい戦争が結びついた「アイスキャンデー売り」。
巻き戻ることのない時間の"絶対さ"を見せつけられた「小さな手袋」。
断片的に、ではあるけれど、いくつかのワンシーン、そこで自分が描いた光景を、今でもありありと思い出すことができる。
だから、実は、その話のタイトルや著者については、おぼろげな記憶だったりする。
白状すれば、上記にあげた作品の中にも、覚えている内容を検索窓に打ち込んで調べ出したものがある。
書名の通り、教科書で取り上げられていた名作をひとまとめにした『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』。
見覚えのないタイトルでも、読み進めていくうちに「ああ、これは!」と当時の感触を思い起こさせる作品がきっとあるだろう。
どれだけ時間が経っても、作品は変わらずにそこに在り続ける。
風化することのない言葉というものの耐久性は、なんだかとても、頼もしい。
旅の合間に- 「旅のつばくろ」(『トランヴェール』収録)
子供のころには一大イベントだった、”新幹線”。
社会人として働くようになるにつれ、そのワクワク感は次第に薄れ、ちょっと味気ない”長距離移動”に変わってしまった。
特に、上田に越してきたことで、新幹線の移動は日常のひとつとして組み込まれるようになった。
でも、新幹線には新たな魅力を感じるようになった。
それはなんと言っても、「本を読むのがはかどる」ということ。
幸か不幸か、トンネルが多い長野・東京間では電波が弱い。無理を押してでもPCで仕事を、と粘るよりも、潔くカバンから本を取り出して活字を楽しむのが吉ですな。
さらにさらに、僕が新幹線で密かに楽しんでいることがある。
それは、車内誌『トランヴェール』に収録されている、沢木耕太郎の旅にまつわるエッセイだ。
国内・国外を問わず、種々の土地を渡り歩いてきた沢木。
舞台となるそれぞれの風景の描写もよいのだけれど、それよりも、その旅への彼の思いがふんだんににじみ出ているのが、とても健やかだ。
不安を覚えながら降りたバス停、ライターとしての在り方を教えてくれた、今は亡き編集者を思いながら歩く桜道。
彼にしか語れない、彼だけのエピソードだけど、そのひとつひとつが僕の胸にも染み入ってくる。
旅の終わりは、旅の完結を意味しない。
その後の自分の人生、当時を振り返るその時々のタイミングで、かつての旅の色合いはいかようにでも変わるんだろう。
駅弁を食べてからでも、トンネルに入ってからでもいい。
ちょっと一息、という間が生まれたら、目の前にある旅の活字に手を伸ばしてみて欲しい。
拘束時間になりがちな長距離移動の中で、鮮やかな小旅行を楽しめるはずだ。
お好きでしょう?-『あやしい投資話に乗ってみた』
「絶対に儲かりますよ」
なんて話を持ちかけられると、そんないい話をどうして自分なんかに教えてくれるんだ、と訝しんでしまう。
まったく、うまいことばかり言うんだから。
でも、ついついそのあとに続けてしまう。
「ちなみに、どんな話なの?」
そんなちょっと危うい好奇心は、この本を読めばいくらか解消されるかも知れない。
ファイナンシャルプランナーである著者が、身銭を切って様々な儲け話にトライしていく本書。
FXや先物取引といった定番の話題もあるけれど、よっぱり心躍るのは未公開株、和牛オーナーといったきなくさい投資話だ。預金した超高金利の銀行は、最後には倒産を迎える(!)
儲け話の渦中に飛び込みつつ、身をよじりながら致命傷をかわしていく姿が気持ちよい。
でも、一番の魅力は、"お金"のことを知り、投資話のあやしさも十二分に把握しているはずの著者が、次第にマネーの魔力に左右されていく姿だろう。
金という数字の上下移動は、プロの精神さえ揺さぶってしまうのだ。
生々しいお金の話は、困ったことに面白い。
特に、他人の体験談は。
僕らはいつも過去を通りすぎていく-『夜とコンクリート』
気がつけば、夏が傍らまできていた。
夜。心地よい風が、半袖から伸びた腕をさらりと撫でていく。
何をするでもなく、ぼうっと呼吸をくりかえす。
おだやかな空気は、それだけで「今は、何もしなくていいんだよ」と無為に過ごす自分を肯定してくれている気がして、嬉しい。
夏が近づくと思い出すのが、『夜とコンクリート』に収録された「夏休みの町」。
大学生の夏休み、ひょんなことから謎の科学者と出会い、山頂に現れるという飛行物体を待つ。
ちょっとしたSF青春物、なんて乱暴な括りもできるかも知れない。
でも、この物語にはある種の不穏な空気というか、哀しみが通底している。
物語のラストには、"青春の想い出"というものが持つ泣きたくなるほどの儚さが、一夏の幕引きと一緒に描かれていく。
町田洋の作品は、いつも「過去を振り返っている」ような気がしてならない。
振り返った先にある過去は、自分の想いが投影された蜃気楼かも知れない。
でも、もうそこに戻る道はないし、戻る必要もない。
そして、実は「今」もまた、「未来の過去」であることに気がつかされる。
自分が、現在進行形でアルバムに収録されていく。
そんな空想は切ないけれど、夏の醍醐味、なのかもね。
今時分、夜半にひっそりとめくるのに、とてもおすすめな1冊です。
よろしければ、ぜひ。
水風呂がみちびく新世界-『サ道』
今日もまた、500円を握りしめ山中の温泉にやってきた。
広々とした露天風呂、オリジナルの珈琲、ピザ窯も備えた美味しいレストラン。
もう身も心もぐでんぐでんに溶けきって、ほてった体で幸せを噛み締めていた。
僕が温泉や銭湯を楽しめるようになったのは、本当に、タナカカツキの『サ道』によるところが大きい。
昨今、サウナが取りざたされることも多くなってきたけれど、その火付け役は本書と言っても差し支えないだろう。
始めは、どうして水風呂なんてものがあるのか分からなかった。
しかし、今。サウナ後の冷たい水風呂の中で生まれる"温度の羽衣"を堪能できるようになった。
サウナと水風呂を行き来するうちに血流の勢いは増し、トリップへ。
流れる水の音が大きくなり、水面の波紋を見つめていると、世界と自分が混ざり合っていく。
晴天の下、まぶしいくらいの緑に輝く木々の中で浸かる水風呂は、罪の味だった。
こわいくらいだぞ、サウナ道。